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ダーウィンの日記1834年11月24日 [ダーウィンの日記(II)]

chiloeNorth.jpg


ダーウィンの日記(チロエ)

[日記仮訳]

(1834年11月)24日[この直前の記事は11月21日付け]

サリヴァン氏[士官]の指揮のもとに、ヨール艇とホウェール・ボートがチロエの東海岸の海図の正確さを調べるために出発した。ビーグル号とは最南端サン・ペドロ島[注]で合流する予定になっている。私はこの探検隊とともに進んだ。
[注] 下の地図2参照。

最初の日は、私はボートで行くかわりに、チャカオ[注]までウマを雇った。道は海岸に沿っており、時々見事な森に覆われた岬を横切った。こうした日陰になっている経路では、カストロ[*注]への主要道路について述べたようなすべての延長にわたって丸太を敷いてある道の作り方が絶対に必要である。そうでないと太陽の光線が常緑樹の葉を通して射すということがなく地面がとても湿っているので人もウマもそれに沿って進む事が出来ない。
[注] チロエ島北東端にある。下の画像2参照。
[*注] チロエ島内陸部の村で、もとはこの島の主要な町だった。


チャカオの村にはボートの人たちがテントを張り終えた後に到着した。この付近の土地は広く刈り払われていて、森の中には多くの静かで絵のように美しくひっそりとした場所がある。以前はチャカオは主要な港であったが、海峡の危険な潮流と岩礁のために多くの船が失われた。スペインの政府は教会を燃やし、そのようにして恣意的に多くの住人をサン・カルロスに移住するよう強制したのである。

少しすると、村長のはだしの息子が私たちを偵察しにやってきた。英国の旗[注]がヨール艇の帆柱の上に掲揚されているのを見て、彼は全く無頓着な様子で、その旗をチャカオに常に揚げることになるのかと聞いた。いくつもの場所の住民は軍艦所属のボートの出現にとても驚き、これはスペインの艦隊がこの島をチリの愛国者政府[*注]からとりもどすために来る前触れだと期待しかつ信じたのであった。 しかし、権力を持つ全ての人たちには私たちの訪問の意図が知らされていたので、その人たちは極度に親切であった。 夕食をとっている時に村長が私たちを訪ねてきた。彼はスペイン軍で中佐であったのだが、今はみじめに貧しい。彼は私たちに2頭のヒツジをくれて、そのお返しとして2枚の木綿のハンカチと真鍮のちょっとした装身具およびわずかのタバコを受け取った。
[注] ユニオン旗ではなく軍艦旗(ここではおそらく"レッド・エンサイン")であろう。
[*注] 愛国者政府とはスペインからの独立を果たした政府で、他方チロエではスペイン寄りの人が多い事についてはダーウィンの日記において既述(7月13日付)。


[地図1] サン・カルロスの湾(今のアンクドの近く;ここが出発点)

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[地図2] サン・ペドロ(合流予定地点 [結果としては12月7日に実現])..

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[画像1] チロエ島北部の衛星写真..
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[画像2] アンクドとチャカオの位置..
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アンクドからチャカオへの現在の道は陸側を通っているようにこの地図にあるが、ダーウィンの場合は"道は海岸に沿って"いた([t]he road followed the coast)と上述の日記の中に書いてある。

[日記原文]

24th
The Yawl & whale-boat under the command of Mr Sullivan proceeded to examine the correctness of the charts of the East Coast of Chiloe, & to meet the Beagle at the Southern extremity at the Isd of S. Pedro. — I accompanied the expedition: instead of going in the boats, the first day I hired horses to take me to Chacao. The road followed the coast, every now & then crossing promontories covered with fine forests. — In these shaded paths, it is absolutely necessary to make the whole road of logs of trees, such as described on the main road to Castro. — otherwise the ground is so damp from the suns rays never penetrating the evergreen foliage, that neither man nor horse would be able to pass along. —
I arrived at the village of Chacao shortly after the tents belonging to the boats had been pitched. — The land in this neighbourhead is extensively cleared & there are many quiet & most picturesque nooks in the forest. Chacao formerly was the principal port; but many vessels have been lost owing to the dangerous currents & rocks in the Straits; the Spanish government burnt the Church & thus arbitrarily compelled the greater number of inhabitants to migrate to S. Carlos. —
In a short time the bare-footed Governor's son came down to reconnoitre us; seeing the English flag hoisted to the yawls mast head he asked with the utmost indifference whether it was always to fly at Chacao. In several places, the inhabitants were much astonished at the appearance of Men of wars boats, & hoped & believed it was the forerunners of a Spanish fleet coming to recover the Island from the patriot Government of Chili. — All the men in power however had been informed of our intended visit & were exceedingly civil. — Whilst eating our supper, the Governor paid us a visit; he had been a Lieut. Colonel in the Spanish service, but was now miserably poor. — He gave us two sheep & accepted in return two cotton handkerchiefs, some brass trinkets & a little tobacco. —

cdarwin_s.jpg

["ダーウィンの日記(II)"について]
ここで扱っているのはダーウィンがビーグル号で航海に出ている時期の日記です。訳文は私的な研究目的に供するだけの仮のものです。普通は全文を訳します。また、ダーウィンが日記を書いた当時の世界観を出来るだけそのままにして読む事を念頭に置きますので、若干の用語の注釈を除いては、現代的観点からの注釈は控え気味にしてあります。
[日記原典] Charles Darwin's Beagle Diary ed. by R.D.Keynes, Cambridge U.P., 1988.

ダーウィンの日記の1831年10月24日から1832年9月14日までの分はアーカイヴ的に"ダーウィンの日記(I)"として何日分かずつまとめて次のところにあります..
http://saltyfumi.blog.so-net.ne.jp/ (トップページ;すなわち1832年9月14日分)
http://saltyfumi.blog.so-net.ne.jp/1831--12-16_0 (日記の冒頭部;前書き)

バナーの画像はビーグル号の人たちによる1835年の測量で作成されたガラパゴス諸島の海図の一部


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