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ダーウィンの日記1834年1月1日と2日 [ダーウィンの日記(II)]

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ダーウィンの日記(パタゴニア; ポート・デザイア)

[日記仮訳]

(1834年)1月1日

遠くの丘まで歩いた。頂上にインディアン[先住民]の墓を見つけた。 インディアンたちはいつも彼等の死者を最も高い丘、もしくは海に突き出している岬に埋める。 この理由で彼等はこの辺に来るのだろうと私は思う。彼等が時々訪れていることは、いくつもの小さな焚火の跡やその近くのウマの骨から明らかである。

2日

一隊の士官たちが私に同行した。なんらかの古物遺品が出て来るのではないかという期待があってインディアンの墓の中をくまなく探すためである。その墓は注意深く積まれた大きな石の堆積からなっていて、丘の頂上の6フィート[1.8m]の高さの岩棚の基部にあった。これの前約3ヤードの所にふたつの各々少なくとも2タン[注]の巨大な砕石が互いに寄りかかるように置いてあった。これらはほぼ確実にもともとはほぼ同じ位置にあったのだがインディアンの目的にかなうように少しばかり動かされたのだろう。硬い岩の上の墓の底に1フットほどの土の層があった。これは下の平原からもって来られたものだろう。植物の繊維が、水がたまることによって、一種泥炭化していた。この上に平たい石が敷き詰められ、それから自然のままの石の大きなが岩だなとふたつの大きな石との間を埋めるように積み上げられていた。墓を完成するためインディアンたちは岩棚から大きなブロックをひとつはがして(たぶん裂け目があったのだろう)、その堆積に落とし、ふたつの他の大きな砕石の上に載せようと工夫していた。
[注] 原文"two tuns"。タンは容積の単位です。ただし、ダーウィンはタン("tun")と重さの単位のトン("ton")とを混同して用いているのではないかと考えられる場合があるので注意が必要かと思われます。特に船の大きさに関してはダーウィンはタンで書いています。

墓をそのブロックの両側で掘ったが骨はなかった。墓のかなりの古さと、水と、気候の変化とが完全にすべての断片を分解したのだということで、私はそれを説明するのみである。私たちは近くの丘に3基の石のより小さな堆積を見つけた。それらはすべて移動されたもので、多分アザラシ猟師か他の航海者たちによってであろう。

インディアンは死ぬとそこに埋葬されるが、骨は後にすでに述べたような所[注]に運ばれると言われている。私はこの慣習は、ウマの移入以前はこれらのインディアンはフエゴ人とほぼ同じような生活を送っていたに違いないということ、ゆえに海の近くにいたに違いないということを想起すれば、容易に説明出来るだろうと思う。先祖のやすらえる所にやすらいたいという普通見られる思いの傾斜というものが、今は放浪しているインディアンをしてその死者のより耐久的な部分を先祖の埋葬地に持ち来らせるのであろう。
[注] "最も高い丘、もしくは海につき出している岬" と上の1日付けの記事にあります。

[地図] ポート・デザイア[プエルト・デセアド]..

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[天候] 1834年1月1日正午の天候:
南南東の風、風力6、全天曇り、暗い、スコール、気温華氏52度(摂氏11.1度)、水温華氏52.5度(摂氏11.4度)。

2日正午の天候:
南東の風、風力4、青空、雲、気温華氏53度(摂氏11.7度)、水温華氏52.5度(摂氏11.4度)。


[日記原文]
January 1st
Walked to a distant hill; we found at the top an Indian grave. The Indians always bury their dead on the highest hill, or on some headland projecting into the sea. — I imagine it is for this reason they come here; that they do pay occasional visits is evident, from the remains of several small fires & horses bones near them. —
2nd
A party of officers accompanied me to ransack the Indian grave in hopes of finding some antiquarian remains. — The grave consisted of a heap of large stones placed with some care, it was on the summit of the hill, & at the foot of a ledge of rock about 6 feet high. — In front of this & about 3 yards from it they had placed two immense fragments, each weighing at least two tuns, & resting on each other. — These in all probability were originally in nearly the same position & only just moved by the Indians to answer their purpose. — At the bottom of the grave on the hard rock, there was a layer of earth about a foot deep; this had must have been brought from the plain below; the vegetable fibres, from the lodgement of water, were converted into a sort of Peat. — Above this a pavement of flat stones, & then a large heap of rude stones, piled up so as to fill up the interval between the ledge & the two large stones. — To complete the grave, the Indians had contrived to detach from the ledge an immense block (probably there was a crack) & throw it over the pile so as to rest on the two other great fragments. We undermined the grave on both sides under the last block; but there were no bones. — I can only account for it, by giving great antiquity to the grave & supposing water & changes in climate had utterly decomposed every fragment. — We found on the neighbouring heights 3 other & much smaller heaps of stones. — they had all been displaced; perhaps by sealers or other Voyagers. — It is said, that where an Indian dies, he is buried; but that subsequently his bones are taken up & carried to such situations as have been mentioned. — I think this custom can easily be accounted for by recollecting, that before the importation of horses, these Indians must have led nearly the same life as the Fuegians, & therefore in the neighbourhead of the sea. — The common prejudice of lying where your ancestors have lain, would make the now roaming Indians bring the less perishable part of their dead to the ancient burial grounds. —[ 'A sketch in the margin appears to illustrate the arrangement of the stones.]

["ダーウィンの日記(II)"について]
ここで扱っているのはダーウィンがビーグル号で航海に出ている時期の日記の1832年9月15日以降の記事です。訳文は私的な研究目的に供するだけの仮のものです。普通は全文を訳します。
[日記原典] Charles Darwin's Beagle Diary ed. by R.D.Keynes, Cambridge U.P., 1988.

ダーウィンの日記の1831年10月24日から1832年9月14日までの分はアーカイヴ的に"ダーウィンの日記(I)"として次のところにおいてあります..
http://saltyfumi.blog.so-net.ne.jp/ (トップページ;すなわち1832年9月14日分)
http://saltyfumi.blog.so-net.ne.jp/1831--12-16_0 (冒頭部;前書き)

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コメント 2

春分

アザラシ猟師は、ここまで来ていましたか。100年ほどの間にどれほど殺したものか。
by 春分 (2009-01-25 10:18) 

さとふみ

その脂肪は灯りとなって西洋文明の進展に寄与したわけですね。
(ぁ、反語的皮肉も込められてますので誤解なきよう。)
by さとふみ (2009-01-25 10:39) 

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